エンタープライズシステムの刷新が活況を呈しており、多くの企業がクラウドネイティブなシステムへの移行を進めている。こうした刷新を進める企業の中には、大規模プロジェクトに関わるノウハウを次世代に継承することを、IT部門の重要な責務と位置づけるケースも少なくない。本稿では、IT部門が継承すべきノウハウとなる、エンタープライズシステムの原則やスキルについて述べる。
一般的に、業務知識とは、特定の業務や業界、あるいは企業での仕事において必要となる専門的な知識やノウハウのことを指す。その仕事の専門家としてもつべき、体系化された実務的な経験や技術と言い換えることもでき、経営学者ヘンリー・ミンツバーグ氏が提唱する経営の3要素のなかの「クラフト」がこれに当たる(ITR Insight『AIドリブン・エンタープライズシステムの要諦』I-324062)。
多数の組織や従業員が配置された企業には、膨大な業務とそれに付随する業務知識が存在することは想像に難くない。DXおよび業務変革に向けた課題解決においては、自社の業務の実態や将来的な展望、さらには競合他社に遅れを取っていないかといった懸念が、社内の重要なコミュニケーションテーマとなるが、その際、業務知識の把握と円滑な伝達が対話の基軸となることは言うまでもない。
しかし、人間がもつ認識能力や思考能力には限界があり、さらに口頭のやりとりでは大量の情報を処理しきれない。的確な理解を可能とするためには、膨大かつ複雑な業務知識を、何らかの構造や領域(ドメイン)に小さくシンプルに分解しつつ、図式化してドキュメンテーションしておくのが効果的である。箇条書きの羅列では伝えられない表現力が図にはあるからだ(図1)。
業務知識を数式的に分解すれば、ドメイン、業務プロセス、データ、タイミングなどの主要構成要素の集合体と定義できる(図2)。ドメインの分割は、企業の規模や形態によって異なるが、全社ドメイン、事業ドメインといった大きな事業領域の括りは汎用的に活用できるだろう(ITR Review『グローバル・システムの方式設計』R-210012)。
業務フローなどのプロセスは、入力/処理/出力の流れでデータや情報と関係づければ、ドキュメントの形式/内容が汎用化できる。また、方言のように使われている用語・語彙や暗黙知を標準化し、図式化して共有することが、齟齬のないコミュニケーションを実現するうえで重要となる。
口頭だけの議論や、不正確で低品質のドキュメントでは、1970年代に起源を遡る米国で流行した作者不明の風刺画「Tree swing cartoon」のように、ユーザーが全く望まないシステムやソリューションの開発にリソースを消費することになりかねない(図3)。さらにいえば、業務知識があるユーザー自身も、本当に何を必要としているのかが実はわかってないケースや、うまく表現できないことは珍しくないのである。
①ユーザーが要望を説明する際は、往々にして表現が誇張されたり、主観的なことが多く、複雑で不必要な要望が混在し、三段重ねのブランコになっている。
②ユーザーの説明が要約され伝達された段階で、木の幹の真ん中に配置され機能性が欠如した一段ブランコの仕様が確定される(ブランコとして漕ぐことができない)。
③②のままではブランコとして機能しないため、最低限漕げるように仕様を変更し開発が進められるが、実用性、耐久性、拡張性が著しく乏しい。
④単純なタイヤブランコで十分な実用性があり、既製品の利用で安価に実現できる。さらに、タイヤの大きさやロープの太さなどの要件が変化しても柔軟に対応できる。
最初から全てを網羅することは重要ではなく、ミクロな業務手続きや例外などは除外しても、初期段階のコミュニケーションは問題ない。全体の7割程度の業務プロセスを、基本形として押さえることが望ましいだろう。言うまでもなく、自社の固有性の高い業務知識を業務プロセスにモデル化できればよく、一般的な業務知識や法律・法令などは、生成AIなどを活用して必要に応じて習得すればよい。
要件定義やそもそも初期の構想策定の段階から、このようにドキュメンテーションしてコミュニケーションのベースとすることができれば、風刺画のブランコのように多大な時間と投資を無駄にすることなく、ITを活用した適切なソリューションを導入する近道とできるだろう。